カノープスの呟き~人生の黄昏時を生きる

60代♀のつぶやき。しょうがいのある娘との二人暮し。フルタイムでパートしています。

昭和30年代生まれの♀が日々のつぶやきを書いてます。
老化の出てきた身体と付き合いながらフルタイムで働いています。色々あって、しょうがいのある娘との二人暮し。
別ブログで自分史を作成中。リンク貼ってありますので興味ある方は覗いてやって下さいませ

2019年12月

駅西の再開発が始まり、リニアの開業に合わせてのビルの耐震化の建て直し工事が急ピッチで進んでいます。
道路も渋滞緩和の為のバイパス道路などの工事で至る所で掘り返されています
交差点で信号待ちをしていて、何気なく工事の所を見ていたら、中央分離帯が壊されて中央部分を掘り返していました
そこに、レールが見えていました。
あ!市電のレールだ、上から舗装しただけでレールは残っていたんだと。
小学生の頃は市電が走っていました。お祭りになると花電車が走りました。市バスも走っていましたが、道路の真ん中に市電の停留所がありました。

市電の停留所に黄色と黒のコンクリートの車止め?のようなものがあって、ある日そこへ自転車に乗った男の子が猛スピードで突っ込み倒れました。
直後にその子は痙攣を起こしていました。Σ(゚д゚;)大人達が信号が変わって助けに行ったのですが、その子は立ち上がると自転車をまたも猛スピードで漕いでどこかに行ってしまいました。
大丈夫だったんだろうか?
人間が痙攣してるのを見たのはその時だけですが、今でも鮮明に覚えています。
市電の事を少し調べてみたら、明治に京都に続いて日本で2番目に走り始めたそうです。
初めは市ではなく、名鉄が始めたとかで大正の初めに運賃の値上げに怒った人達が暴徒化して、今の柳橋昔の名古屋の玄関口を焼いて、車両も23台焼き払ったとか。
その事もあり、市が買い取り市電となったようです。
最盛期の路線図を見ると名古屋市内を網羅するように走っています。今のバスの路線図と変わらないみたいです。
さよなら市電の時に花電車が走り、見に行った記憶があります。
市電に乗った記憶はあまり無く、すでにバスに移行していた時代だったのかな?
現在は、道路の真ん中にバスレーンが出来てバス停が市電の如く道路の真ん中にある路線も。
市電残しとけば良かったのにって声もある。
TOYOTAのお膝元の名古屋は車の所有率高いから車通勤も多い。
都市部は駐車場が高いけど( ̄▽ ̄;)
バスより地下鉄の方が利用する頻度高いし、渋滞ないからね
バスも路線によっては赤字らしい
昨今の高齢者の運転ミスのニュース見ると赤字でも市民の足はきめ細かい 路線を維持して残して行って欲しい
65歳以上は無料で、61歳から3ヶ月で1万円の定期券がある。
市バスの定期は一般は9千円で乗り放題
赤字は敬老パスの無料も原因の一つとか言われてる。収入に合わせて料金設定したらどうかな?
Door to doorの便利さに慣れちゃうと車が手放せなくなるかもだけど
難しい問題です。高齢化が急速に進んだので対策が追いついてないですね
私は自分の足で歩けるように頑張って筋力を鍛えるしかない

今は単身用のアパートも増えてるけど、昔は一人暮らしは大抵大家さんのいる貸家とか木造の二階建てアパート、トイレ共有みたいな所だった。
先生も地方出身の人は、下宿したりしてた
小学校の時に弟の担任が下宿アパート?に住んでいた
今じゃやってないんだろうけど、その頃は家庭訪問にいらっしゃったら中に入ってもらい、コーヒーとお菓子などを出して接待するのが普通で、コーヒー続きじゃあれだろうから、日本茶にしたり紅茶にしたりと親も大変だった
お中元やお歳暮も贈っていた
母親に頼まれて先生のす下宿にお菓子や食べ物の箱を持って行かされた
母親は近くで待っていて、私と弟で部屋にお邪魔する。
下宿のおばちゃんがお茶やお菓子出してくれて、世間話始まるのでなかなか抜けられない(笑)
戻ると母親がイライラして待っていた。
何をしてたんだ、遅いなと。
そんなにイライラするなら自分で行けばいいのに
下宿の先生は弟の結婚式に来てくれました
出世して校長先生になってました(笑)

団地は自治会っていうのがあった。
町内会は町ごとだけど、自治会はマンションごととからしい
何かと煩い人はいるもので、なんだかんだとルールを決める。
ルールはどんどん増えて行く( ̄▽ ̄;)
それを監視するのも趣味か?っていう位にチェックする人がいる。
子供の頃住んでいた所にもいて、色が黒い人だったのでみんな陰でクロと呼んでいた。
その頃は子供でも家のことはやらないといけなかったので、自治会のルールにあるように当番が回ってくると色々とやらされた。
思うに子供にやらせとけば煩く言ってこないと言うのもあったんじゃないかと思う。
まずは回覧板。これは子供の役目。親が行くと噂話に花が咲きなかなか戻って来れなくなる(笑)
ゴミ当番もあった。ゴミ回収の後にゴミ置き場をキレイにする。
これは学校から帰って来てホウキとちりとりで落ちてるゴミを片付ける。
それと、めんどくさいのが焼却炉当番。

その頃はたき火や庭でドラム缶なんかで紙とか燃やしてもOKだったので、焼却炉があった。
その燃えた灰を定期的に片付ける当番。
焼却炉から灰を掻き出して集めて地面を掘って埋める。
繰り返すうちに掘ったら前の灰が出てくるので( ̄▽ ̄;)
掘る場所探しも大変で大きなシャベルを持ってウロウロ
そのうちに焼却炉は壊れてしまってその当番は無くなったけど

子供用自転車に乗ったのは小学生

弟と共有で、毎日練習して乗れるようになった
いつも後ろに弟を乗せて走っていた
弟がなかなか自転車に乗れなくて( ̄▽ ̄;)
運動神経悪かったし(笑)
自転車は楽しくて弟を乗せてめっちゃ漕ぎました( ̄▽ ̄;)
ちなみに母親は自転車乗れません。
あの年代の人は乗れない人多いのかな?
ご婦人が自転車乗るなんて!って時代?に育った?
近所のお母さん達もあんまり乗って無かった
まあ、買い物は毎日行ってたし
市場に肉屋や八百屋なんか入っててそこで買ってた
車なんて持ってる人いなかったし。
あの頃はみんな歩いてた。今じゃすぐ近くに行くにも車の人も多いけど

小学5年生の時に林間学校に行った。今もあるけど林間学校って名前じゃないと思う。
同じ県の東部にある丘陵地域に行った。
観光バスで数時間。もう、50年も前だから断片的な記憶。
テントやバンガローではなくて、保養所的な感じの建物。

飯盒炊飯。お決まりのカレーライス。
炊けたらひっくり返す。
なんか水が多すぎたのか、火力足りなかったのか?
お粥の様なご飯が炊き上がった。
夜はキャンプファイヤー

しおりに書いてある歌をみんなで歌った。
西瓜の名産地とか、山の歌?
遠き山に日は落ちて~~~とか
翌朝は、何故かラジオ体操から始まる(笑)
山登りの開始

早く着かないかな?とそれだけを考えながらひたすら登る
普段からずっと動きっぱなしの私は遅れることなく登山終了。
下りる時に思わず走り出しちゃう私たち(笑)
下りが危ないんだぞと先生の怒鳴り声( ̄▽ ̄;)
海には毎年行ってたけど山は初めてだったので楽しかったな

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